原題: OpenAIの内情を知り尽くす元CTOのムラティ、新AIが明かした「中国製への傾倒」
著者: Amir Husain(Contributor, Forbes)
公開日: 2026年7月23日
ソースURL: Forbes JAPAN(forbes.com 原文)
アーカイブ日: 2026-07-24
OpenAIの元CTOミラ・ムラティが率いるThinking Machines Labが初のモデル「Inkling」を公開した。総パラメーター数9750億、アクティブパラメーター410億のMoEトランスフォーマーで、テキスト・画像・音声・動画にまたがる45兆トークンで事前学習され、100万トークンのコンテキストウィンドウに対応する。同社は製品未発表のまま120億ドルの評価額で20億ドルのシード資金を調達し、エヌビディア、AMD、シスコ、アンドリーセン・ホロウィッツらが出資した注目株だ。
ところが、Inklingの性能は中国の主要オープンモデルに後れを取っている。Humanity’s Last Exam、Terminal Bench、SWE-Bench Verifiedなどのベンチマークで、Zhipu AIのGLM 5.2やMoonshot AIのKimi K2.6に及ばない。Thinking Machines自身も「現時点で最強のモデルではない」と認めている。ChatGPTの生みの親たちが集まり、120億ドルの評価を得たラボが、無料で使える中国製モデルに劣る製品を出した——この事実が示唆するものは極めて大きい。
本稿の核心は、Inklingの技術的出自にある。MoEアーキテクチャはDeepSeek-V3を踏襲し、ポストトレーニングはKimi K2.5を含む中国のオープンウェイトモデルが生成した合成データを用いた教師ありファインチューニングによって立ち上げられた。つまり、米国ラボが中国のアーキテクチャを採用し、中国モデルを「蒸留」して旗艦モデルを訓練したのである。この事実は、米国の政策レトリックが抱える根本的な矛盾を暴き出す。
この18カ月、ワシントンは「中国のラボは米国の知的成果を盗み、蒸留によってモデルを築いている」と非難し続けてきた。DeepSeekがAI業界を揺るがした2025年初頭、OpenAIと米政府当局者の最初の反応は「DeepSeekはOpenAIのモデルを蒸留した」というものだった。連邦議会調査は中国AI企業による米国フロンティアモデルへの「組織的蒸留作戦」を主張し、使われた言葉は「窃盗」である。ところが、Inklingが中国モデルから学んだ時、誰もそれを窃盗とは呼ばなかった。中国のラボが米国モデルから学べば「窃盗」、米国ラボが中国モデルから学べば「エンジニアリング」——この非対称性の上に、まともな技術政策は成り立たない。
では、なぜThinking Machinesは「最強ではないモデル」をあえてリリースしたのか。答えは保護主義の追い風を活用する戦略にある。InklingはApache 2.0ライセンスのオープンウェイトモデルであり、主眼はチャットボットとしてではなく、同社のファインチューニング基盤「Tinker」を通じてカスタマイズするベースモデルとしての提供だ。企業が求めているのは「最も賢い」モデルではなく「自社仕様に作り込める」モデルだ、という読みである。
だが、それなら米国企業はもっと優秀な中国モデルで同じことをすればよいはずだ。実際、そうしていた。OpenRouter経由の企業利用トークンの約45%が中国モデルだった。CoinbaseはAIエージェントをGLMとKimiに移行してAI費用を半減させ、CursorはKimiベースで自社モデルComposerを構築した。ところがワシントンは今、その扉を閉ざそうとしている。国務省は中国モデルのリスクについて企業に警告を発し、下院委員会はAirbnbとCursorの調査に乗り出した。政府調達からの排除も立案中だ。最終ルールがどうであれ、中国のオープンモデルは事実上「手を出せないもの」になりつつある。Inklingは、この空白を埋めるために存在する——最良ではなく、ただ「許された」低リスクのベースモデルとして。
ここで決定的に重要なのは、Muratiの経歴だ。彼女はOpenAIのCTOとして技術スタックの中身を正確に知っており、2023年の取締役会騒動では暫定CEOも務めた。OpenAIが何を作り上げ、これから何を作れるのかについて、彼女ほどの視界を持つ人間は地球上にほとんどいない。その彼女が、白紙の設計図と20億ドル、そしてエヌビディア最新のGB300システムを与えられて選んだのは、DeepSeekを踏襲したアーキテクチャとKimiに頼った訓練手法だった。これは、オープン研究の技術的フロンティアが実際にはどこにあるのかを示す、決して小さくないデータポイントである。
しかも、このタイミングはOpenAI自身の減速が数字に表れ始めた時期と重なる。GPT-5.6のロールアウトは当初限定的で、7月に一般提供が始まった。Kimi K2.6はSWE-Bench ProでGPT-5.5をわずかに上回っている——オープンウェイトモデルが主要プロプライエタリモデルをこのベンチマークで上回ったのは初めてだ。米国のクローズドラボと中国のオープンラボの差は、多くのタスクで数カ月に縮まり、一部では逆転した。OpenAIの技術部門を率いた人物が古巣のアプローチではなく中国の設計図から出発した——ならば市場は、OpenAIに残された競争優位性の大きさについて考えを改めるべきだろう。
最終章で著者は、この構図が米国企業を構造的に不利な立場に追い込むと警告する。Inklingは中国の最良オープンモデルに性能で劣る。米国企業は規制と調査によってInklingのような米国製ベースモデルへ押しやられるが、米国外の企業にその制約はない。シンガポールやイスタンブール、バルセロナの企業がGLM、Kimi、DeepSeekをファインチューニングできるのに対し、米国の競合他社はより弱い「許可された」代替品の上に構築することになる。ファインチューニングしたモデルの性能上限はベースモデルで決まる。コンピューティングの歴史上初めて、米国企業が基盤技術において構造的不利を負う可能性がある——才能や資本の問題ではなく、政策が自国企業を最良のインプットから締め出すからだ。
著者は長年の主張を繰り返す。米中AI競争の勝敗を決めるのは個々の部品ではなくエコシステムであり、米国企業のグローバル市場活用を妨げる規制は逆効果だ。中国のプレーヤーは有能な無料モデルを世界中にあふれさせ、オープンウェイトをエコシステムの土台にしつつある。一方、米国のフロンティアラボは最高の成果を非公開のまま抱え続けている。そして今、中国の「オープン戦略」に対する米国の政策的回答は、オープンさで競り勝つことではなく、自国開発者を縛ることになっている。
Inklingの教訓は、Thinking Machinesが失敗したということではない。オープンで自由なAIの重心が中国に移った——それも、OpenAIの卒業生自身が中国製基盤の上にモデルを築くほどに——ということだ。米国産業を囲い込もうとするワシントンの本能は、守るつもりの企業をかえって不利に追い込みかねない。強さは、より良く、より速く、より安く作ることから生まれる。自国チームに劣った装備で戦わせることからではない。
本稿の最大の価値は、Thinking Machines Labという一企業の製品発表を、米中AI競争全体の構造変化を示す「鉱山のカナリア」として読み解いた点にある。Amir Husainは単なる製品レポートに終わらせず、Muratiの技術選択——DeepSeek-V3アーキテクチャの採用とKimi K2.5によるポストトレーニング——を、ワシントンの「蒸留=窃盗」レトリックに対する痛烈な反証として位置づけた。この分析枠組みの独自性は高く、今後同種の議論が起きた際に参照されるべき視点を提供している。
第二に、Inklingの市場ポジショニングを「コンプライアンス上安全な、しかし性能では劣る代替品」と喝破した洞察は鋭い。これはAI規制が産業競争力に与える影響についての、具体的なケーススタディとして機能する。米国企業が中国モデルを使えなくなる規制環境下で、Inklingのような「許された」モデルが果たす役割と、それによって生じる国際的な競争力格差——この構図は今後数年間、繰り返し議論されるテーマになるだろう。
長期的な参照価値の観点から言えば、本稿は2026年夏という時点での米中AI競争のスナップショットとして極めて貴重だ。OpenAIの元CTOが中国技術基盤を選んだという事実、OpenRouter上の中国モデル利用率45%という数字、Kimi K2.6がSWE-Bench ProでGPT-5.5を上回ったというマイルストーン——これらはすべて、将来の歴史家が「AIの重心移動」を論じる際の一次資料となる。翻訳記事でありForbes Japan掲載という制約はあるが、議論の質と分析の切れ味はその制約を十分に補って余りある。
タグ: AI, 米中関係, オープンソースAI, OpenAI, DeepSeek, Thinking Machines Lab, 技術政策, 保護主義