原題: 崩壊するリベラルな国際秩序 ―民主主義の後退がもたらす不安な時代―(地経学研究レポートNo.8)
著者: 細谷雄一(編・序論・結論)、市原麻衣子、板橋拓己、石川雄介、鈴木均、熊谷奈緒子(地経学研究所 欧米グループ)
公開日: 2026-09-14
ソースURL: https://instituteofgeoeconomics.org/research/2026091401/
アーカイブ日: 2026-10-01
地経学研究所(IOG)欧米グループによる「リベラルな国際秩序(LIO)」プロジェクト第3期の報告書である。危機を論じた第1期(2020年)、秩序の改革を説いた第2期(2024年)を継ぎ、序論、国内社会を扱う第Ⅰ部(第1〜3章)、国際社会を扱う第Ⅱ部(第4〜5章)、結論からなる。民主主義の後退という内的要因と、規範や多国間主義の後退という外的要因が相互に作用して秩序を崩している、という見立てが全体を貫く。
細谷は、2016年のトランプ当選で顕在化した危機が「新しい段階」に入ったと位置づける。ロシアのウクライナ侵攻、2026年2月の米国とイスラエルによるイラン攻撃、中国の力による現状変更とレアアース輸出規制は、いずれも国連安保理常任理事国の行為であり、そこに従来と異なる性質がある。
この十年の変化として挙げるのは、地経学の時代への転換と経済安全保障の中核化、グローバル・サウスの台頭、ミドルパワー連携の必要性、ポピュリズムとナショナリズムの深刻化の4点である。カナダのカーニー首相の「テーブルにつかないなら、メニューに載せられてしまう」「過去を懐かしむことは、戦略ではない」という演説を引き、旧い秩序の復旧ではなく改革が要ると説く。2017年にアイケンベリーが秩序の存続を安倍首相とメルケル首相の「両肩」に託したことを踏まえ、日本とドイツに注目しつつ、その両国でも民主主義が危機に直面していることを本報告書の主題に据える。
欧州対外行動庁(EEAS)の「外国による情報操作と干渉(FIMI)」という概念を用い、中露の共通点と相違点を整理する。FIMIは「主に違法ではない行動パターン」であり、取り締まりが難しい。ロシアは企業やトロールに外部委託し、露骨で攻撃的である。中国は統一戦線工作部などが統括する中央集権型で、親中感情の醸成を視野に入れた長期的な工作を行う。
事例は2025年7月の参院選である。公示日から投票日前日までに、ロシア系Xアカウント20件が行った投稿4,455件と、中国系20件の3,443件を共起分析した。ロシア系は「外国人」を「問題」「土地」「犯罪」と結びつけ、参政党候補を推して石破首相を批判し、中国人の不動産購入や北海道での伐採を取り上げて反中感情も利用した。ピュー・リサーチ・センターの調査で、日本の対中感情は25カ国中最も低い。一方、中国系は「日本人ファースト」を排外主義と批判しながら多文化共生を掲げる勢力を冷笑し、「北海道の土地1/3は中国人が買ったも嘘」と反中言説を修正し、中国人は数学やAIに強いといった肯定的なナラティブを流した。
ここから市原は、中露は連携していても細部では相反し、中国系はロシア系の言説を打ち消す必要に迫られると結論する。提言は4点ある。偽情報だけでなく、事実の切り取りによる悪意ある情報を含むナラティブ全体を見ること、社会の信頼と包摂を育てること、批判的思考を養うこと、そして中間団体を経由する持続的な資金で民間に対策を担わせることである。
「ドイツのための選択肢(AfD)」は2025年2月の連邦議会選挙で得票率20.8%の第二党となり、2026年5月には世論調査で初めて首位に立った。戦後ドイツで極右が伸びなかった理由は、ナチの過去への反省に基づく「闘う民主主義」、主要政党による「防火壁」、5%阻止条項の3つであった。
AfDは反ユーロの「教授政党」として生まれ、2015年の党大会で右翼路線が確定し、同年の難民危機が「天祐」となった。板橋はこれをメルケル政治の「鬼子」と呼ぶ。保守政党の中道化と大連立で対立軸が曖昧になり、右側に空隙ができたからである。極右諸勢力の「アンブレラ政党」となったこと、SNSの駆使、政権参加の見込みのなさが過激化を促すことも指摘する。投票理由は2017年には「他党への失望」が60%だったが、2025年には「信条・信念」が54%となり、岩盤支持層が育っている。
旧東ドイツ地域については、社会学者マウの研究に拠る。平均資産は西の半分に満たず、指導的ポストに占める東出身者は12.1%にとどまる。統一が西による吸収として進んだため、東の人びとは民主政治の主体性を奪われ、「二級市民」として扱われたという「集合的剥奪」の感覚が残った。政党に属する有権者は1%未満で、理念としての民主主義は90%以上が肯定するのに、機能していると答えるのは40%強である。AfDは消防団や合唱団など地域の団体に入り込んだ。板橋は問題を抗議票ではなく代表性と包摂の危機と捉え、くじ引きによる市民評議会に触れつつ、旧東ドイツを他国の「先駆者」と見る。
偽情報への対抗を短期的で反応的な「守り」、戦略的コミュニケーションを長期的で先制的な「攻め」と区別し、NATOとEUの枠組みを概観したうえで3か国を比べる。スウェーデンは2022年に心理防衛庁を設けた。偽情報を信じる国民を「脅威」ではなく「脆弱性」と捉え、同庁は国内の情報環境を分析する権限を持たない。リトアニアは法律で偽情報の流布を禁じ、ロシア系放送を遮断する一方、独立系ロシア語メディアで代替の情報源を確保し、平時と有事で所管を分ける。チェコは、法的根拠と説明を欠いたサイト遮断の試みが「言論弾圧」と批判され、特別代表職は廃止、2026年1月には戦略的コミュニケーション局そのものが閉鎖された。
教訓は、安易な対策が国内対立を深めること、脅威を国内の人びとではなく国外のアクターに求めること、省庁間連携を制度化することである。3か国は日本のパートナーにもなりうるとする。
2021年1月、ユニクロの綿シャツが新疆ウイグル自治区との関連を疑われ、米国税関に差し止められた。取引先とされた中国企業への打撃は小さく、中国の人権状況も改善せず、罰を受けたのは日本企業だった。鈴木はここに矛盾を見る。2011年の国連指導原則以降の普遍的価値としての取り組みを「第1世代」、米国が市場アクセスを梃子に中国企業の排除を図る現在を「第2世代」と呼び、西側企業はコスト面の不利に加えてサプライチェーン管理の負担という「二重の重み」を負うと論じる。IOGの100社アンケートでは、2年続けて50.8%の企業が取引先の人権問題を課題に挙げた。
対する中国は、人権を肯定しつつ普遍性を否定する「独自の人権発展の道」を掲げ、国連人権理事会で途上国の支持を集めている。国内の抑圧と監視システムの輸出が自国産業の強化と同時に進む構造を、鈴木は「逆・武器化」と名づける。日本企業には、次にどこが狙われるかを見通す経済インテリジェンスの強化を求める。
第二次トランプ政権の単独主義を、66の国際機関からの脱退表明、USAIDの解体、国際刑事裁判所への制裁、ベネズエラへの軍事行動、相互関税などから描く。権限を制約するのは国際法ではなく「私の道義、私の心」だという大統領の発言が象徴的に引かれる。2026年春のピュー調査では、36の国と地域で米国より中国への信頼度が高かった。
ミドルパワーは協力を進めるが、欧州の防衛協力には困難もある。トランプ大統領は「米中G2」を仄めかすものの、米中関係は指導者個人に依存し、中露関係も非対称で、多極化は流動的である。中国の掲げる「多国間主義」は選別的で、グローバル・サウスに対して強圧的であり、BRICS内にも温度差がある。熊谷は、権威主義を理由に排除せず、植民地支配の記憶を持つ国々の声に謙虚に耳を傾ける「寛容性を伴うリベラルな国際秩序」を目指すべきだとする。
提言は3つである。経済的威圧に屈しない自律性と強靱性を確保し、ミドルパワー連携でルールに基づく秩序を守ること。グローバル・サウスが受け入れられる秩序へ日本が橋渡しをすること。FIMIに対抗する法的、政策的措置を導入すること。政権基盤が比較的安定し、イデオロギー対立も欧米ほど深刻でない日本が、改革と再生を先導すべきだと結ぶ。
本報告書の価値は、国際秩序論を国内政治の実証と結びつけた点にある。秩序の危機を大国間関係だけで語らず、選挙期間中のSNS投稿、旧東ドイツの社会構造、各国の行政組織、企業アンケートといった具体的な材料から組み立てている。なかでも第1章が示した中露のナラティブの相反は、「中露連携」という通念を修正する観察であり、第4章の「第2世代」「逆・武器化」という整理は、人権規制が誰に負担を負わせているかを問う視点を与える。
限界もある。第1章の分析は各20件のアカウントに基づき、中露系と判定した基準の詳細は示されていない。支持率や首脳外交の記述は時間とともに古びる。また、結論が求めるFIMIへの法的措置と、第3章が警告する政府主導の対策の危うさ、第5章が説く寛容性との間には緊張が残り、その調整は読者に委ねられている。
それでも、2026年時点で秩序の崩れがどこまで進み、日本の研究者がそれをどう捉えていたかを章ごとの実証とともに残した記録として、後年の検証に耐える。秩序の「擁護」ではなく「改革」を一貫して説く姿勢は、第2期からの連続性を示している。
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